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「権利」でなく「権理」 (京都大学 藤井聡教授)

「権利」でなく「権理」
(京都大学 藤井聡教授)
あまり知られていないですが、昨日4月28日は日本が主権を回復した日。
日本はどこかの植民地になったりということはないですが、戦後8年間占領されていた期間は
日本としてこうしたい、という国の主権がなかった
(昭和28年まではMade in Japanと書くことがダメで、Made in Occupied Japanと書かされたそうです)。
その主権を4月28日のサンフランシスコ講和会議で日本は回復するわけですが、
その主権という言葉を考える時に、もう少し、一人一人のミクロで見た時に「権利」という言葉を
考えさせられることを、先日紹介した、“なぜ正直者は得をするのか―「損」と「得」のジレンマ | ”を
書いた京都大学の藤井教授が面白い話をしてました。
なかなか昔の人は、当て語をするときに考えたもんだな
と考えさせられる言葉。
もともと、英語で言うところの「right」を翻訳したのは福沢諭吉だそうです。
ただ、意外と知られていないのは元々の漢字は「権利」ではなく、
「権理」、若しくは「権利通義」だったそうです。
ここで、やっぱり、昔の人は色々と語彙の語源までたどって考えていて
すごいなと思ったりするわけです。
何故、権理の「理」を当てはめたか、というと、恐らく
権利のなかには「理」=「ことわり」があることは、常識だと福澤は思ったのでしょう。
(若しくは権利通義とは、権利を主張するには「義」が通じないといけない)
人間っていうのは、自分達のお世話になっている家族、ご近所さん、会社や国といった
共同体の中で社会的存在であり、そこで常識を身につけていきます。だから、逆にそのお返しに共同体に貢献しなければならない、という精神基盤があり、そこから「理」(ことわり)を権った(はかった)上で、自分に許されていると判断される行為がある。その行為の可能性として「権理」がある。
というものだと思われます。
ところが、戦後どこかのタイミングで権理は権利に書き換えられてしまった。
つまり「ことわり」の「理」から、「自分の損得」の「利」になってしまった。
それは共同体からどれだけの利益を自分が得ることができるかを、私心のうえ(私心のみ)で
権ったものといえます。私が小学校の頃はかろうじて、権利と義務は一心同体、と教えられていましたけどね。
だからこそ、今、自分達の権理を主張する時には、「大人としての社会的な義務を背負った大人として、ちゃんと妥当な理由があるかどうか」まで考えた上で主張しましょう。そんなことなんでしょうね。
英語を勉強している時ってついつい、rightは権利、dutyは義務なんだ、
と単純に覚えてしまいますが、日本語に限らず、英語や他の言語を作った様々な国の人達も
言葉をそこまで考えて作っているのだなと考えるきっかけに紹介しました。
これってお客様のレッスンのキャンセルの仕方でも、
「明日、キャンセルでお願いします」って何度も平気でやっちゃう人は権利と思っていると思いますし、
逆に、普段キャンセルしない人がやむを得ずする時に、「ほんとにレッスン・パートナーに申し訳ないとお伝えください」と言って自分の利益ではなく理を持ってキャンセルする人と2タイプいますね。
多くの人が権利と思う社会から権理(若しくは、権利を主張するには理がいることを理解している人)が大多数の社会になると、本当に、ビジネスもより信頼関係に基づいて出来るようになりますよね。
特に、私たちのようなサービス業はそうだと思います。
なかなか、考えさせられる言葉です。