
「日本語を廃止して、英語を国語にしようとした明治の政治家」として語られることの多い森有礼(もり ありのり)。この説明は、完全な作り話ではありません。森は1872年、アメリカ滞在中に言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーへ英文書簡を送り、日本で英語を採用する構想を真剣に示しました。
ただし、森が文部大臣として日本語廃止を政策化し、実行しようとした――とまで言うと不正確です。提案が行われた時期、提案の相手、当時の日本語をめぐる状況、そしてその後の教育行政を分けて見る必要があります。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
森有礼とは?日本初の文部大臣になった人物
森有礼は1847年、薩摩藩に生まれました。藩校の造士館や開成所で学び、1865年にはイギリスへ留学。その後アメリカにも渡り、西洋の宗教・教育・社会制度に触れました。
帰国後は外交官や政治家として活動し、1873年には明六社の設立に参加。商法講習所(のちの一橋大学につながる教育機関)にも関わりました。1885年、伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任し、近代的な学校制度の整備を進めます。1889年、帝国憲法発布の日に襲撃され、翌日に亡くなりました。
つまり森は、単なる「英語好きの思想家」ではありません。明治国家がどのような教育制度と言語環境を持つべきかを、制度の側から考えた人物でした。経歴の概要は国立国会図書館「近代日本人の肖像」でも確認できます。
なぜ明治初期に「言語」が国家的な問題になったのか
現代の私たちは、「日本には日本語という共通語があり、学校ではそれを学ぶ」という状態を当然のように感じます。しかし、明治初期には、全国どこでも同じ話し言葉が通じ、学校教育に適した標準的な文章語が整っている、という状況ではありませんでした。
地域ごとのことばの差は大きく、日常の話し言葉と公的な書き言葉の隔たりもありました。さらに、西洋から大量に流入する法律・科学・技術・経済の概念を、どの言語で学び、どう翻訳するかも大問題でした。「国語」という枠組み自体が、のちの時代と同じ意味で完成していたわけではありません。
森の提案は、この混乱期に出てきました。英語採用論だけを現代の感覚で切り取ると奇抜に見えますが、背景には「全国的な教育をどう成立させるか」「近代知識へどう接続するか」という切迫した課題があったのです。

1872年、森有礼はホイットニーに何を提案したのか
森が英語採用構想を示した重要な史料が、1872年にイェール大学の言語学者ウィリアム・ドワイト・ホイットニーへ送った英文書簡です。国立国会図書館の研究資料でも、森が日本語を強く批判し、英語の採用を提案したことが論じられています。
森は、当時の日本語が近代教育や知識の普及に十分対応できないと考えました。そして、国際的に広がる英語を採用することが、日本の近代化を速めると期待しました。ただし、既存の英語をそのまま丸ごと導入するという単純な話でもありません。英語の不規則な動詞や綴りを整理し、学びやすい形にする構想も含まれていました。
ここは大切な点です。森が目指したのは、イギリス人やアメリカ人の英語を崇拝することだけではなく、教育と実用に耐える共通言語を設計することでした。とはいえ、日本語を置き換えるほどの急進的な提案だったことも否定できません。
ホイットニーは賛成しなかった
森から相談を受けたホイットニーは、日本で英語教育を広げる意義そのものは認めました。しかし、日本語を英語で置き換えることには反対しました。日本語には日本社会を支える力があり、捨てる必要も、現実的に捨てられるものでもないと考えたのです。
また、森が考えた英語の規則化についても、言語は計画通り簡単に作り替えられるものではないとして慎重でした。両者のやり取りを扱うジョン・E・ジョセフの研究は、提案と反応を国際的な言語論争の中に位置づけています。
この往復を見れば、英語採用案は日本政府が決定した政策ではなく、森が海外の専門家へ意見を求めた構想であったことが分かります。しかも、相談相手から全面的な支持を得たわけではありません。
「日本語廃止論」と呼ぶときの注意点
森の提案を「日本語廃止論」と要約することには根拠があります。しかし、この呼び名だけでは三つの違いが消えてしまいます。
- 個人的・知的な提案と、政府が決定した政策は違う
- 1872年の書簡と、1885年以降の文部大臣としての行政は違う
- 英語採用を構想したことと、日本語廃止を実施したことは違う
森は後年、学校制度を中央集権的に整え、英語を含む近代教育を重視しました。しかし、文部大臣として日本語を全面廃止する制度を作ったわけではありません。英語採用の急進案と、のちの教育制度改革を一本の直線で結ぶと、森の思想の変化や現実の政策過程を見落とします。
この点は、森の英語国語化論を再検討した福元美和子の研究でも、単純化を避けて史料を読む必要性が示されています。
森有礼の問題意識に先見性はあったのか
森が見抜いていた課題の一部は、現代にも通じます。知識へのアクセスを左右する言語、国際交流の共通語、学校教育で教えられる言語と家庭で使う言語の関係。これらは現在も世界各地で議論されています。
また、英語を「生まれつきの母語話者だけの所有物」とせず、学習しやすい形へ変えようとした発想には、国際共通語を設計する視点も見えます。現代の「英語は誰のものか」という問いにもつながります。詳しくは英語は誰のもの?ネイティブだけが「正しい英語」を決めるのかもあわせてどうぞ。
一方で、知識へのアクセスを改善する方法は、社会全体の母語を入れ替えることだけではありません。翻訳語を作る、教師を育てる、複数言語で教材を整える、日本語そのものを教育に適した形へ発展させる――実際の近代日本では、こうした複数の道が進みました。
英語採用論の限界と批判
森の構想には、少なくとも四つの大きな問題があります。
1. 学習負担と格差が大きすぎる
国民全体が外国語へ移行するには、教師、教材、時間、費用が必要です。英語教育へアクセスできる都市部や上層の人々と、そうでない人々の差が広がる可能性もあります。共通語を作るはずの政策が、むしろ新しい階層差を生みかねません。
2. 文化と記憶を切断する危険がある
言語は情報伝達の道具だけではありません。文学、口承、地域の記憶、家族関係、ものの見方を蓄える器でもあります。母語の置換は、効率だけでは測れない損失を伴います。
3. 英語圏の権力を過小評価している
英語を採用すれば国際社会へ公平に参加できるとは限りません。「標準的な英語」を誰が定め、誰の発音や表現が高く評価されるのかという問題が残ります。言語政策は、政治的・経済的な力関係と切り離せません。
4. 言語は上から簡単に設計できない
綴りや文法を合理的に整える案は魅力的ですが、言語は話者の慣習によって変化します。制度だけで一気に置き換えたり、完全に規則化したりすることは困難です。ホイットニーの反論は、この現実を突いていました。
しゅみすけ(大山俊輔)
英語学習者が森有礼から学べること
森の構想が示す最大の教訓は、英語学習を「母語か英語か」という二者択一にしないことです。英語は、知識や人間関係を広げる追加の道具として大きな価値があります。しかし、英語ができることと、日本語で深く考えられることは競争関係ではありません。
むしろ、複数の言語を行き来すると、同じ概念の切り分け方が違うことに気づけます。日本語で理解した内容を英語で説明し、英語で得た知識を日本語で整理する。この往復が、理解を深めます。
英語による日本紹介という意味では、森より後の時代に『武士道』を英語で書いた新渡戸稲造も対照的です。また、英語教育と格闘しながら文学理論を築いた夏目漱石を見ると、近代日本人が英語と結んだ関係が一様ではなかったことが分かります。
英語や言語を研究してきた人物を、世界の言語学と日本の英学・翻訳・教育という二つの流れからたどる場合は、中間ガイド「言語を研究した人々|英語・言語学の歴史を変えた研究者・英学者」をご覧ください。
まとめ:提案の急進性と政策の現実を分けて読む
森有礼は1872年、ホイットニーへの英文書簡で、英語を日本の共通言語として採用する急進的な構想を示しました。この意味で、「英語国語化論」は史実に根ざしています。
しかし、森が文部大臣として日本語廃止を実施したわけではありません。提案は反論を受け、全面的な政策にはならず、森の仕事の中心は学校制度の整備へ移っていきました。
森を「日本語を嫌った人物」とだけ見るのではなく、標準語も近代教育も整備途上だった時代に、知識・教育・国際化をどう結ぶかを考えた人物として読む。そのうえで、母語置換という解決策の危うさを批判する。そこまで見て初めて、森有礼の英語論は現代の英語学習や言語政策にもつながる問いになります。









