
「カップは本の左にあります」
英語なら The cup is to the left of the book.。日本語でも英語でも、ごく自然な説明です。
ところが世界には、同じ場面を「カップは本の北側にある」「本から下り方向にある」のように表し、日常会話で右・左をほとんど使わない言語共同体があります。
机の上の小さな物を説明するのにまで、話し手は方角や土地の傾斜を把握しているのです。
なぜ言語によって、空間の伝え方がこれほど違うのでしょうか。その鍵になるのが空間参照枠(spatial frame of reference)です。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
空間参照枠とは?位置を決めるための座標
ある物の位置を説明するには、基準が必要です。
「カップが左にある」と言っても、誰から見て左なのか。「家の前に車がある」と言っても、家のどちら側を前と考えるのか。位置は、対象だけを見ても決まりません。
空間参照枠とは、物と物の方向関係を定めるための座標系です。言語研究では、主に次の三種類が区別されます。

- 相対的参照枠:話し手・見る人を中心にする
- 内在的参照枠:基準物そのものの前後・左右を使う
- 絶対的参照枠:北南、海陸、上り下りなど環境に固定された軸を使う
空間参照枠を扱ったPLOS ONEの研究も、この三つを「物体中心・自己中心・世界中心」の主要な参照システムとして整理しています。
相対的参照枠:私から見て右・左
英語や日本語でよく使われるのが、話し手や観察者の身体を座標の中心にする相対的参照枠です。
- The cup is on the left.(カップは左です)
- Move it to your right.(それをあなたの右へ動かしてください)
- The tree is in front of me.(木は私の前にあります)
便利な一方で、見る方向が変わると座標も反転します。向かい合った二人の「右」は反対です。
オンライン会議で「画面の右上を押してください」と言ったとき、説明者から見た右か、利用者から見た右かで混乱することがあります。相対的参照枠は、誰の視点かを共有して初めて成立する座標なのです。
前の記事で扱った直示――this・thatと「こ・そ・あ」と同じく、話し手が移動すれば基準点も動きます。
内在的参照枠:家や人そのものに前後がある
内在的参照枠では、話し手ではなく、基準にする物が本来持つ方向を使います。
- The bicycle is in front of the house.(自転車は家の前にあります)
- There is a garden behind the school.(学校の裏に庭があります)
- He is standing at the side of the car.(彼は車の横に立っています)
家は入口側が「前」、車は進行方向が「前」、人間は顔のある側が「前」と捉えられます。観察者が反対側へ回っても、家の前後は通常入れ替わりません。
ただし、すべての物に自然な前後があるわけではありません。丸い石の「前」は、置かれただけでは決まりません。また、建物の正面と話し手から見た手前が一致しない場合、in front of がどちらを意味するか曖昧になることがあります。
同じ英語表現の中でも、相対的な読み方と内在的な読み方が競合するのです。
絶対的参照枠:北・南、海側・山側、上り・下り
絶対的参照枠では、話し手の向きが変わっても動かない環境上の軸を使います。
- 北・南・東・西
- 海側・陸側
- 川上・川下
- 山側・谷側
- 上り方向・下り方向
英語や日本語でも、都市や広い空間ではこの参照枠を使います。
- Drive north for two miles.
- 東京駅の北側です。
- 海側の出口へ進んでください。
しかし、机の上のカップについて「本の北側にある」と言うことは普通ではありません。ここが、絶対的参照枠を小さな空間でも優先する言語との大きな違いです。
「右・左」を体系的に使わないツェルタル語
メキシコ南東部で話されるマヤ諸語の一つ、ツェルタル語の一部共同体では、土地全体の傾斜を基準にした上り・下り・横方向の座標が日常的に使われます。
ペネロピ・ブラウンの研究によると、テネハパ地域のツェルタル語では、北へ向かう全体的な下り斜面を基準に、大小を問わず物の位置を表します。
たとえば、戸口のすぐ近くにある山刀についても、発想としては「山刀は戸口の下り側に立っている」のように記述できます。この共同体では、話し手の身体から投射する右・左の体系は伝統的に中心ではありません。
重要なのは、話者が右手と左手の違いを認識できないという意味ではないことです。身体の左右を区別する能力と、空間説明でどの座標を習慣的に使うかは別問題です。
相手が反対を向いても「北」は北のまま
絶対的参照枠には、視点を変えても方向が反転しないという強みがあります。
二人が向かい合っていても、「カップを北へ動かしてください」と言えば、同じ方向を共有できます。「私の右」「あなたの左」と変換する必要がありません。
その代わり、話者は現在地と方角を継続的に把握する必要があります。室内や知らない場所でも、周囲の地形・太陽・風・道・集落の配置などから方向を保つことになります。
言語は単に、すでに知っている位置を口に出す道具ではありません。何かを説明するたびに、どの情報へ注意を向けるべきかを話者に要求します。
言語が違うと、空間の記憶も変わるのか
この分野では、言語と空間認知の関係が長く研究されてきました。
HaunらのPNAS研究は、人間と大型類人猿の空間記憶を比較し、相対的・絶対的な参照枠の選択に生物的傾向と文化的上書きの両方が関わる可能性を示しました。
また、同じ曖昧な空間文を相対的・内在的に解釈させた神経画像研究では、参照枠によって異なる脳活動パターンが観察されています。
ただし、ここから「言語が思考を完全に決定する」と結論づけることはできません。人は必要に応じて複数の参照枠を使えますし、生活環境、地図教育、移動経験、職業も方向感覚に影響します。
より慎重に言えば、日常言語が特定の座標を繰り返し要求することで、話者が空間のどの側面へ注意を向け、どう記憶するかに習慣的な偏りが生まれ得る、ということです。
英語と日本語も、一つの参照枠だけではない
英語や日本語は右・左をよく使いますが、相対的参照枠しか持たないわけではありません。
| 参照枠 | 英語 | 日本語 |
|---|---|---|
| 相対的 | on your left | あなたの左 |
| 内在的 | behind the house | 家の裏 |
| 絶対的 | north of Tokyo | 東京の北 |
違うのは、どの参照枠が存在するかより、どの場面でどれを自然な第一選択にするかです。
英語でも船、航空、地理、都市計画では方角が不可欠です。日本語でも京都の「上る・下る」、海沿いの「海側・山側」、鉄道の「上り・下り」は、土地や交通網に固定された座標です。
私たちもすでに複数の空間OSを持ち、場面に応じて切り替えているのです。
英語学習で迷いやすいfront・back・left・right
空間参照枠を知ると、英語の前置詞や方向表現を単語だけで覚えずに済みます。
- on your left:聞き手中心の相対的参照枠
- to my right:話し手中心の相対的参照枠
- in front of the building:建物中心の内在的参照枠になりやすい
- north of the station:世界中心の絶対的参照枠
道案内では、誰の視点かを明示すると誤解が減ります。
- It will be on your right.
- Turn left when you face the station.
- The entrance is on the east side of the building.
単なる right の訳ではなく、座標の中心を相手と共有することが、正確な英語になります。
しゅみすけ(大山俊輔)
まとめ:言語は世界に座標を置く
空間参照枠には、主に三つあります。
- 相対的:話し手・聞き手から見た右左や前後
- 内在的:家・車・人など、基準物が持つ前後
- 絶対的:北南、海陸、川上川下、上り下り
英語や日本語は相対的参照枠を小さな空間で使いやすい。一方、世界には地形や方角に固定された絶対的参照枠を、机の上の物にまで使う言語共同体があります。
これは、どの言語が優れているかという話ではありません。それぞれの環境と暮らしの中で、何を安定した基準として選んできたかの違いです。
英語とは、世界に貼られた名前の集まりではありません。話し手の身体、物の向き、地球や地形という複数の座標を選びながら、世界の位置関係を組み立てる仕組みでもあるのです。
言語が世界の見方をどう切り分けるかに興味がある方は、「有生性とは?」や、「日本語と英語はなぜこんなに違う?」もあわせてどうぞ。










