
「コーヒーはいかがですか?」と聞かれて「もう夜も遅いので」と答えた人は、「夜が遅い」という事実だけを報告したのでしょうか。普通は、そこから「今はコーヒーを飲まない」という意図を読み取ります。ポール・グライスは、私たちが言葉どおりの意味を超えて、話し手の意図をどう推論するかを理論化しました。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
ポール・グライスとは
ハーバート・ポール・グライス(Herbert Paul Grice、1913–1988)は、イギリス生まれの哲学者です。オックスフォード大学で学び、教えたのち、カリフォルニア大学バークレー校へ移りました。言語哲学と語用論に大きな影響を与え、特に話し手の意味、協調の原理、会話の含意で知られています。
中心的な議論は、1967年のウィリアム・ジェームズ講義「Logic and Conversation」で示され、1975年に論文として発表されました。関連論文はのちに『Studies in the Way of Words』(1989)へまとめられています。
「言ったこと」と「伝えたこと」は違う
グライスの重要な発想は、発話の字面だけでなく、話し手が相手に何を理解させようとしたかを見ることです。
たとえば、Aが「山田さんは仕事ができる?」と尋ね、Bが「時間どおりには会社に来ます」と答えたとします。Bは遅刻しないことしか明言していません。しかし、質問との関係を考えると、「仕事全体については高く評価していない」という意味をほのめかしている可能性があります。
このように、文字どおりに述べた内容とは別に、発話と文脈から推論される意味を会話の含意(conversational implicature)と呼びます。
協調の原理とは
グライスは、通常の会話を、参加者が一定の目的や方向を共有する合理的な協働として捉えました。そして大意として、その時点の会話の目的に必要な貢献をするという協調の原理(Cooperative Principle)を提案しました。
ここでいう「協調」は、親切、賛成、仲良く話すことではありません。議論や交渉で意見が対立していても、互いに発言を関係のあるものとして解釈し、意図を理解しようとするなら、推論上の協調は成立します。
会話を支える4つの格率
協調の原理を具体化するものとして、グライスは四つのカテゴリーを示しました。

1. 量の格率:必要な情報量を
会話の目的に必要なだけ情報を提供し、必要以上にも不足にもならないようにする期待です。「参加者は?」への返答が「田中さんです」なら、一人だけと推測されやすくなります。実際には他にも参加者がいるのに一人だけ挙げれば、重要な情報を隠すことにもなります。
2. 質の格率:真実だと信じることを
偽りだと思うことや、十分な根拠のないことを述べないという期待です。ただし、皮肉や比喩では表面的にこの格率を外すことで、別の意図を示す場合があります。土砂降りの日に Lovely weather! と言えば、聞き手は字面を真実として受け取らず、皮肉だと推論します。
3. 関係の格率:関連することを
現在の会話に関係のある発言をするという期待です。「明日の会議に出られる?」に「子どもの学校行事があります」と答えた場合、聞き手は関連性を探し、「出席できない、または難しい」と理解します。
4. 様態の格率:明確に伝える
曖昧さや不必要な回りくどさを避け、簡潔で順序立った表現をするという期待です。内容の真偽や量ではなく、主にどのように言うかに関わります。ただし、あえて遠回しに言うことが、配慮や含みを伝える場合もあります。
格率を「守らない」から意味が生まれる
四つの格率は、常に従うべき会話マナーのチェックリストではありません。聞き手が「話し手は意味のある発言をしているはずだ」と考えるからこそ、表面上格率に合わない発言から別の意味を探します。
これを格率の公然たる無視・利用(flouting)と説明します。
- 皮肉:明らかに事実と反対のことを言い、質の格率を利用する
- 遠回しな断り:質問へ直接答えず、関係の格率から意図を推論させる
- 控えめな評価:求められた情報より弱いことだけ言い、量の格率から否定的含意を生む
- 意図的な長広舌:不自然に回りくどく言い、様態の格率から特別な事情を察させる
一方、相手に気づかれないよう格率を破り、誤った理解へ導く場合は、一般に違反(violation)と区別されます。含意を共有するための目立つ逸脱と、欺くための隠れた逸脱は同じではありません。
会話の含意を推論する流れ
- 発話の文字どおりの意味を理解する
- 文脈と会話の目的を確認する
- 話し手が合理的に会話へ参加していると仮定する
- 表面的な不一致や情報不足を見つける
- その発話が適切になる話し手の意図を推論する
たとえば「何人かの参加者が合格した」と聞くと、「全員ではない」と受け取ることがあります。論理的には some は全員の場合を排除しません。しかし、全員なら普通は all と言うはずだという量の期待から、「一部だけ」という尺度的含意が生じます。
含意は取り消せる
会話の含意の代表的な特徴は、矛盾せずに取り消せることです。
Some of the students passed—in fact, all of them did.
「何人かが合格した。というか、実際には全員合格した」と続けても、論理的な矛盾にはなりません。これは「全員ではない」が単語 some の固定的な意味そのものではなく、通常の会話から生じた含意であることを示します。
英語学習にどう役立つ?
- 遠回しな依頼:Can you open the window? を能力質問ではなく依頼として理解する
- 婉曲な断り:I’ll think about it. が場面によって弱い拒否になり得ると知る
- 皮肉:字面、声の調子、状況の食い違いから意図を読む
- 数量表現:some、or、possible などが生む尺度的含意に気づく
- 異文化会話:どこまで明示し、どこまで察するかの期待が相手によって違うと考える
しゅみすけ(大山俊輔)
理論の評価と限界
グライスの理論は、意味論が扱う慣習的な意味と、文脈から推論される語用論的意味を区別する基礎を与えました。言語学、哲学、認知科学、AIにおける対話研究などへ広く影響しています。
一方、四つの格率は互いに重なることがあり、どの含意をどの格率から導くかが一意に決まらない場合があります。関連性の基準や、推論に必要な共有知識の範囲も明確とは限りません。また、情報をどれほど明示するか、沈黙や婉曲表現をどう評価するかは文化・関係・制度によって変わります。
その後、関連性理論や新グライス派語用論などが、格率の整理や推論過程の説明を発展させました。現代の研究では、グライスの枠組みを完成済みの万能ルールではなく、発話から意図へ至る推論を研究する出発点として位置づけるのが一般的です。
まとめ
ポール・グライスは、「言ったこと」と「伝えたこと」の間を、聞き手が合理的な推論で埋める仕組みを説明しました。協調の原理と、量・質・関係・様態の格率があるからこそ、私たちは省略、遠回しな表現、皮肉から意図を読み取れます。会話の含意を知ることは、英文を訳すだけでなく、英語で本当に何が伝わっているかを理解する手がかりになります。
参考資料
- Stanford Encyclopedia of Philosophy: Paul Grice
- Stanford Encyclopedia of Philosophy: Implicature
- Cambridge University Press: Theoretical Foundations—Implicatures
- Grice, H. P. (1975). “Logic and Conversation.” In Syntax and Semantics 3: Speech Acts.
- Grice, H. P. (1989). Studies in the Way of Words.










