
英語の this は「これ」、that は「それ・あれ」。学校では、まずそう習います。
ところが、実際の会話では単純に置き換えられません。日本語の「それ」と「あれ」はどちらも英語では that になり得ますし、目の前にある物をあえて that と呼ぶこともあります。電話口では、自分を this、相手を that で指すような表現さえあります。
この不思議を解く鍵が、言語学でいう直示(deixis/ダイクシス)です。
直示とは、言葉の意味を「誰が・いつ・どこで話したか」という現場につなぐ仕組みです。いわば、言語に組み込まれた指さしです。
しゅみすけ(大山俊輔)
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直示とは?意味が会話の現場で決まる言葉
たとえば、誰かが I am here now. と言ったとします。
- I は誰か
- here はどこか
- now はいつか
この三つは、辞書だけでは特定できません。発話した人・場所・時刻を知らなければ、具体的な意味が決まらないからです。
直示の中心は、ふつう話し手・発話場所・発話時点です。この中心は「直示の中心(deictic center)」と呼ばれます。会話の順番が交代すると、先ほどまで I だった人が you になり、here や now の指す範囲も動きます。
直示は主に次のような領域に現れます。
- 人称直示:I、you、we
- 場所直示:this、that、here、there
- 時間直示:now、then、today、tomorrow
- 談話直示:this idea、that is why など、発言内容を指す表現
- 社会直示:敬称や敬語など、人間関係を示す表現
文法と会話の状況が接続する場所こそ、直示なのです。
英語はthis・thatの「2区分」
英語の指示詞は、基本的に話し手から見た近さで二つに分かれます。
- this / these / here:話し手に近い
- that / those / there:話し手から遠い
WALS(世界言語構造地図)の指示詞調査でも、英語は単純な距離の二項対立を持つ言語として扱われています。
- This is my cup.(これは私のカップです)
- That is your cup.(それ/あれはあなたのカップです)
英語では、聞き手の近くにある物と、話し手・聞き手の両方から遠い物を、指示詞そのもので必ず区別するわけではありません。どちらも基本的には that の領域です。
日本語は「こ・そ・あ」の3区分
一方、日本語の基本的な指示体系は三つに分かれます。

- こ:話し手に近い――これ、ここ、この
- そ:聞き手に近い――それ、そこ、その
- あ:話し手と聞き手の両方から遠い――あれ、あそこ、あの
つまり、日本語は距離だけでなく、対象が話し手側の領域か、聞き手側の領域かも区別します。日本語の so- が聞き手の近く、a- が両者から遠い対象を示すという対照は、指示詞の類型研究でも取り上げられています。
| 状況 | 日本語 | 英語 |
|---|---|---|
| 話し手の手元の本 | この本 | this book |
| 聞き手の手元の本 | その本 | that book |
| 両者から遠い本 | あの本 | that book |
したがって、this=これ、that=それという対応表だけでは、日本語の「あれ」が行き場を失います。英語と日本語は、世界を分ける線の本数が違うのです。
距離はメートルではなく、心理でも変わる
直示の「近い・遠い」は、物理的な距離だけではありません。話し手が対象をどれほど自分の側に引き寄せているかという、心理的・談話的な距離も関わります。
thisは、これから会話の中心に置くもの
英語では、紹介したい人物や、これから話題の中心にする内容を this で提示できます。
- This is my friend, Maya.
- Listen to this.
- Here is this idea I’ve been thinking about.
対象が手で触れられるほど近いからではなく、話し手が今から注意の中心へ運び込むための近さです。
thatは、距離を置いた評価にも使われる
That was amazing! の that は、遠くにある物を指しているとは限りません。たった今見た演奏や、直前に相手が言った内容を一まとまりとして指しています。
- That was a great movie.
- I don’t agree with that.
- That’s exactly what I mean.
直前の出来事や発言を少し外側から眺め、評価する働きです。一方、話し手が強く共感して I know this feeling. と言えば、感情を自分の側へ引き寄せています。
英語と日本語の指示詞選択は、どちらもこうした主観性や心理的距離に左右されます。第二言語習得研究の概説でも、英語の this / that と日本語の ko / so / a の選択は、単なる客観距離ではなく、主観的・心理的な要因を持つと紹介されています。
日本語の「あ」は「二人とも知っている」にもつながる
日本語の「あの人」「あの店」は、必ずしも視界の遠くにある人や店を指しません。
- またあの店に行こうよ。
- あのときは大変だったね。
この「あ」は、話し手と聞き手が共通の記憶の中で対象を特定できることを示します。物理的な空間では遠くても、二人の記憶には共有されているわけです。
反対に、「昨日、新しい店を見つけたんだけど、その店が面白くて」の「その」は、会話の中で先に登場した店を受けています。これは指さしというより、前の言葉を受ける照応(anaphora)に近い用法です。
日本語の ko-so-a を研究した長谷川葉子の論文も、現場を指す直示と、談話内の先行表現を受ける照応を区別し、独り言では so- が主に照応として現れることを示しています。
comeとgoにも「視点の中心」がある
直示は指示詞だけではありません。英語の come と go も、移動をどこから見るかに関係します。
- I’m coming to your office.(あなたのいるオフィスへ行きます)
- I’m going to the station.(駅へ行きます)
come は、話し手や聞き手、あるいは会話上の中心へ近づく移動。go は、その中心から離れる移動として捉えるのが基本です。
日本語ならどちらも「行く」と訳せる場面があるため、日本語話者は I’m going to your house. と言いたくなります。しかし、聞き手が自宅にいて、その場所を到着点として共有しているなら I’m coming to your house. が自然です。
これは以前の記事で扱った主語優勢・主題優勢ともつながります。文法を選ぶ前に、話し手がどこにカメラを置いているかが決まっているのです。
I・you・now・todayも、話すたびに中身が入れ替わる
I や you は、一見すると普通の代名詞です。しかし、発話者が変わるたびに指す人物が入れ替わります。
Aさんが I will call you tomorrow. と言い、Bさんが翌日に報告すると、She said she would call me the next day. のように人称・時制・時間表現が組み替わります。
now、today、tomorrow も、発話時点を中心にした直示表現です。オンライン会議、録音、メールのように発信時と受信時がずれる場面では、「今日」がいつなのかを補う必要があります。
英語学習で間接話法や時制の一致が難しく感じられるのは、形を変える規則だけでなく、直示の中心を元の話し手から報告者へ移動する操作が含まれているからです。
しゅみすけ(大山俊輔)
世界の言語は、もっと細かく「ここ」を分ける
英語の二分法、日本語の三分法がすべてではありません。WALSによれば、指示詞の距離を四段階以上に分ける言語もあります。
さらに世界には、単なる近さだけでなく、対象が見えているか、上方か下方か、川上か川下か、話し手へ近づいているか離れているかまで指示詞に組み込む言語があります。
つまり「ここ」「そこ」は、どの言語でも同じ現実を別の音で呼んでいるわけではありません。各言語が、会話に必要だと考える座標を選び、異なる解像度で世界を地図にしているのです。
まとめ:直示は「英語とは?」を発話の現場へ戻してくれる
直示とは、言葉を話し手・聞き手・場所・時間・談話へつなぐ仕組みです。
- 英語の this / that は、基本的に話し手中心の二分法
- 日本語の「こ・そ・あ」は、話し手・聞き手・両者から遠い領域の三分法
- 距離は物理的な長さだけでなく、心理・記憶・談話でも変わる
- come / go、I / you、now / then にも直示の中心がある
言葉は、世界に貼り付いた固定ラベルではありません。誰かが、ある場所と時間から、誰かに向かって発した瞬間に意味を持ちます。
英語の冠詞も「聞き手が対象を特定できるか」を扱う仕組みです。直示との接点をさらに知りたい方は、「英語はなぜ冠詞が必要?」もあわせて読んでみてください。










