
英語は、早く始めれば始めるほど上達する。授業では、できるだけ日本語を使わないほうがよい——。
英語教育をめぐっては、こうした分かりやすい標語が繰り返されてきました。しかし、認知科学者・言語学者の大津由紀雄は、その前に確かめるべき問いがあると考えます。
そもそも、子どもはことばをどう身につけるのか。英語教育の目的は何か。日本語で育てた「ことばを観察し、比べ、考える力」を、英語学習に生かせないのか。
大津の提案する「ことばへの気づき」は、小学校英語だけの問題ではありません。英単語やフレーズを暗記してきたのに、自分で文を組み立てにくい大人の学び直しにも、重要なヒントを与えてくれます。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
大津由紀雄とは?
大津由紀雄(1948年生まれ)は、日本の認知科学者・言語学者です。慶應義塾大学名誉教授で、言語の認知科学、子どもの言語獲得、統語論、言語教育などを研究してきました。
立教大学、東京教育大学大学院を経て、1981年にマサチューセッツ工科大学(MIT)で言語学の博士号を取得。その後、東京学芸大学や慶應義塾大学などで研究・教育に携わりました。
英語教育についても長く発言し、『小学校での英語教育は必要か』『危機に立つ日本の英語教育』を編著したほか、窪薗晴夫との共著『ことばの力を育む』では、母語教育と外国語教育をつなぐ実践を提示しています。
研究の出発点|子どもはどうやってことばを身につけるのか
子どもは、周囲の発話をそのまま録音して再生するように母語を覚えるわけではありません。聞いたことのない文を作り、文法的な形と不自然な形を直感的に区別し、ときには大人が教えていない規則まで使います。
大津の専門である言語獲得研究は、この驚くべき能力の仕組みを探る分野です。ここから英語教育を見ると、学習者は知識を一方的に注入される容器ではなく、入力のなかから規則を見つけ、仮説を作り、修正する主体だと分かります。
英語教育で大切なのは、正解を覚えさせることだけではありません。「なぜこの語順になるのか」「日本語なら何を省略できるか」「同じ意味でも、どんな言い方の違いがあるか」と、学習者自身がことばに目を向ける機会を作ることです。
「ことばへの気づき」とは何か
「ことばへの気づき」とは、普段は無意識に使っていることばを、一歩離れて観察する力です。音、文字、語の作り方、語順、意味の曖昧さ、丁寧さ、方言、他言語との違いなどに注意を向けます。
これは難しい文法用語を暗記することと同じではありません。たとえば、次のような問いから始められます。
- 「黒い大きな犬」と「大きな黒い犬」は、どちらが自然に感じるか
- 日本語では主語を言わなくてもよい場面が、なぜ多いのか
- 「は」と「が」を替えると、何に焦点が当たるか
- 英語の I を日本語にすると、なぜ「私」「僕」「俺」などに分かれるのか
- I only told her. は、only の位置や読み方でどう意味が変わるか
こうした比較を通じて、子どもも大人も「ことばには仕組みがある」「同じ内容でも表し方は一つではない」と気づきます。このメタ言語的な感覚が、新しい外国語を学ぶ土台になります。

なぜ日本語が英語学習の土台になるのか
すでに持っている知識を、比較に使える
日本語の母語話者は、日本語文法の説明ができなくても、膨大な日本語の知識を持っています。どの語順が自然か、誰にどの言い方を使うか、何を省略できるかを日々判断しています。
英語を学ぶとき、この既有知識を無視する必要はありません。日本語と英語を比べれば、英語で主語が求められやすい理由、冠詞や単数・複数を明示する場面、語順が担う役割などが見えやすくなります。
母語と外国語を分断しない
学校では「国語」と「英語」が別教科として扱われます。しかし、どちらもことばを使って考え、理解し、他者と関係を作る学びです。
大津は、母語教育と外国語教育を有機的に結びつけた「ことばの教育」を構想しました。日本語を見直すことが英語への気づきを生み、英語を学ぶことが日本語の特徴を発見するきっかけにもなる。二つの方向が循環する設計です。
大津由紀雄は小学校英語に反対したのか
大津は、小学校で子どもが外国語や異文化に触れること自体を一律に否定したわけではありません。問題にしたのは、「早く始めれば自然に話せるようになる」という期待だけで制度を進めることや、目的・教員体制・中学校以降との接続が曖昧なまま英語を教科化することでした。
幼い時期から英語に触れる効果は、学習時間、指導の質、家庭や社会で英語を使う環境、継続性によって変わります。週に限られた時間だけ授業を前倒ししても、母語環境のなかで自然習得が起きるわけではありません。
さらに、小学校教員の負担、評価による英語嫌い、英語だけを特別視する危険も検討する必要があります。大津が問うたのは「英語か、反英語か」ではなく、限られた教育時間で何を育て、その学びを将来へどうつなげるかです。
代案は「英語をなくす」ではなく、視野を広げること
小学校段階では、正確な英語運用を急いで評価するより、世界には多様な言語があること、音や語順の仕組みが異なること、ことばによって他者と理解し合えることを体験させる。そこから日本語を含む複数のことばへ関心を広げる——これが「ことばへの気づき」に根ざした考え方です。
「英語だけで英語を学ぶ」の落とし穴
英語を実際に聞き、話し、読む時間はもちろん必要です。しかし、「日本語を一切使わないこと」が常に最良とは限りません。
初級者にとって、短い日本語の説明で仕組みを理解できれば、その後の英語練習により多くの注意を向けられます。逆に、意味も規則も曖昧なまま英語だけを浴び続けると、分かったふりをしたり、決まったフレーズだけを再生したりする学習になりかねません。
重要なのは日本語の使用量をゼロか百かで争うことではなく、目的に応じて使い分けることです。英語で意味を推測する時間、日本語で違いを整理する時間、再び英語で運用する時間を組み合わせればよいのです。
しゅみすけ(大山俊輔)
大人の英語学習に生かす5つの方法
1.例文の共通点から、自分で規則を見つける
文法解説を読む前に複数の例文を並べ、語順や形の共通点を探します。そのあと説明を確認すると、知識が受け身の暗記ではなく、自分の発見と結びつきます。
2.日本語と英語の「違い」を一つだけ観察する
一度に全てを比べる必要はありません。今日は主語、明日は時制、その次は冠詞というように焦点を絞ります。「英語では何を明示し、日本語では何を文脈に任せるか」を見ると効果的です。
3.正解だけでなく、言い換えを作る
一つの日本語に一つの英訳を当てるのではなく、同じ意図を二、三通りで表します。語彙が出ないときは簡単な語で説明する。これによって、ことばを選ぶ力と会話の修復力が育ちます。
4.間違いを仮説の痕跡として見る
間違いは、何も考えていない証拠とは限りません。学習者が作った規則を過剰に適用した結果かもしれません。「なぜこの形を選んだか」を振り返ると、修正すべきポイントが明確になります。
5.学んだ英語で、日本語を見直す
英語の冠詞を学んだら、日本語は名詞をどう特定するのか。英語の敬語表現を学んだら、日本語の丁寧さは語尾以外でどう作られるのか。外国語を鏡にすると、母語の無意識な知識が見えてきます。
功績と、議論を受け取るときの注意点
大津由紀雄の功績は、英語教育を「開始年齢」「授業時間」「会話量」だけの問題にせず、人間がことばを獲得し、ことばについて考える仕組みから問い直したことです。国語教育と英語教育を接続し、「ことばの教育」という広い枠を示した点も重要です。
一方、「ことばへの気づき」だけで英語が使えるようになるわけではありません。実際の運用には、大量の理解可能な入力、発音・語彙・文法の練習、対話、継続時間が必要です。また、幼少期の外国語教育の効果は、目標や環境によって異なるため、「早期英語は無意味」と一括りにするのも正確ではありません。
大津の議論は、英語練習を減らす口実ではなく、練習を意味あるものにするための設計思想として受け取るのがよいでしょう。
鈴木孝夫・斎藤秀三郎とのつながり
鈴木孝夫は、言語によって世界の切り分け方が異なることを示しました。大津の「ことばへの気づき」は、その違いを学習者自身が観察し、母語と外国語の両方を深く理解する教育へ展開したものと読めます。
また、斎藤秀三郎が大量の実例から英語の使い方を整理した姿勢は、例から規則を発見する学びとつながります。実例、気づき、説明、運用を往復することが、暗記だけに終わらない英語力を育てます。
英語や言語を研究してきた人物を、世界の言語学と日本の英学・翻訳・教育という二つの流れからたどる場合は、中間ガイド「言語を研究した人々|英語・言語学の歴史を変えた研究者・英学者」をご覧ください。
まとめ|英語の前にあるのは、ことばを考える力
大津由紀雄が英語教育に投げかけたのは、「もっと早く」「もっと英語だけで」という分かりやすい処方箋を、一度立ち止まって考える視点でした。
日本語を観察し、英語と比べ、仕組みを自分で発見する。そこで得た気づきを、実際の英語運用で試す。そして英語を通じて、再び日本語への理解を深める。
母語と外国語は、学習者の頭のなかで敵同士ではありません。両者を行き来しながら、ことばを自分で考えて使えるようになること。それが、大津の言語教育論から受け取れる本質です。









