
日本では日本語、フランスではフランス語。私たちは「一つの国には一つの国語がある」ことを、ごく自然なものとして受け止めがちです。
しかし、国境の内側には昔から多くの方言や少数言語があり、人々は複数のことばを使い分けてきました。その中から、学校や行政で使う一つの型が選ばれたのだとしたら、国語は自然に生まれたというより、国家によって整えられた面もあるのではないでしょうか。
この問題を鋭く問い続けてきたのが、言語学者・モンゴル学者の田中克彦(たなか・かつひこ)です。本記事では代表作『ことばと国家』を手がかりに、母語・標準語・国家語の違い、ことばと権力、英語学習との関係を分かりやすく解説します。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
田中克彦とは?言語を民族・国家・権力から考えた研究者
田中克彦は1934年、兵庫県生まれ。東京外国語大学でモンゴル語を学び、一橋大学大学院社会学研究科、ドイツのボン大学などで言語学、民族学、文献学を研究しました。東京外国語大学、岡山大学、一橋大学、中京大学で教え、一橋大学名誉教授を務めています。
専門はモンゴル語学、社会言語学、民族と言語の問題です。英語やフランス語のような大言語を中心に世界を見るのではなく、国家や大文明の周縁に置かれた言語と話者から、言語学そのものを問い直しました。
代表作には『ことばと国家』『言語からみた民族と国家』『差別語からはいる言語学入門』『ことばは国家を超える』などがあります。
『ことばと国家』が投げかけた問い
1981年に刊行された『ことばと国家』の出発点は素朴です。子どもは、生まれる土地や家庭のことばを選べません。それなのに、ある人のことばは「正しい国語」と評価され、別の人のことばは「なまり」「方言」「乱れたことば」と低く見られることがあります。
この差は、言語そのものの優劣から生じるのではありません。学校、辞書、文法書、放送、行政などが、特定の話し方を正しい型として広め、その型に近い人へ有利な立場を与えることで生まれます。
田中の議論は、文法や標準語を不要だと言うものではありません。何が「正しい」とされるのか、その基準を誰が決め、誰が利益を得て、誰のことばが周辺へ押しやられるのかを問うものです。
母語・標準語・国家語は同じではない

母語:生活の中で身につくことば
母語は、幼いころから家庭や地域で身につけることばです。「母国語」と同じとは限りません。国籍が日本でも、家庭では中国語やポルトガル語を使う人がいます。一人が複数の母語を持つこともあります。
標準語:広い範囲で共有するための型
標準語は、地域を越えて意思疎通するために整えられた共通の型です。教育、出版、放送、仕事などで便利ですが、自然界に最初から存在した唯一正しい形ではありません。多くの場合、政治・経済・文化の中心地で使われる話し方が基礎になります。
国家語:国家の制度を動かすことば
国家語は、法律、行政、学校などで国家が使用することばです。国によっては「公用語」として法律で定められます。一つの国家が複数の公用語を持つこともあれば、法的な規定と実際の運用が異なることもあります。
つまり、家庭で身につけた母語と、学校で習う標準語と、役所で使われる国家語は重なる場合もありますが、本来は別の概念です。
「一国家・一民族・一言語」は自然法則ではない
近代国家は、国民を一つの制度のもとで教育し、徴税し、法律を適用するため、共通のことばを必要としました。学校教育、徴兵、新聞、辞書、鉄道、放送などは、地域ごとに異なっていた話し方を標準語へ近づけました。
共通語が広がったことで、遠くの人とも交流でき、教育や政治参加の範囲が広がったのは事実です。その一方で、標準語を話せない人が「無教養」と見なされたり、学校で方言や少数言語の使用を禁じられたりすることもありました。
田中が批判するのは、共通語そのものより、国家・民族・言語が初めから一対一で結びついていたかのように扱う考え方です。現実の人間は、国境を越えて移動し、家庭・地域・学校・職場で複数のことばを使います。
方言は「崩れた標準語」ではない
方言には、それぞれ固有の発音、語彙、文法があります。標準語から誤って分かれた未完成のことばではありません。標準語のほうも、多様な方言の中から社会的な力を持つ一つの型が選ばれたものです。
たとえば「標準語を話せること」が採用や昇進で有利になれば、言語の差が社会的な格差へ変わります。ここで問題なのは、共通語を学ぶことではなく、母語や方言を使う人の能力・人格まで低く評価することです。
文法はことばを説明するのか、裁くのか
文法には少なくとも二つの役割があります。一つは、実際に人々がどのように話しているかを観察し、規則性を説明する役割。もう一つは、学校や公的文章で「こう書くべきだ」と基準を示す役割です。
後者の規範文法は共通理解に役立ちます。しかし、その規範をことば全体の絶対的な正解だと考えると、現実に使われている表現を誤りとして排除しやすくなります。
英語でも、二重否定、地域的な語法、非母語話者の表現などが、単に標準英語と違うという理由で劣った英語と見なされることがあります。ここにも、田中が指摘した「正しさ」と権力の結びつきがあります。
英語の世界支配とどうつながるのか
国家の中で標準語が地域言語より優位になる構造は、国際社会で英語が他言語より優位になる構造と似ています。
共通語としての英語は便利ですが、英語を母語としない人には、学習費用や翻訳負担が偏ります。詳しくは、津田幸男の英語支配論で解説したとおりです。
ただし、英語を学ぶことと英語中心主義を無批判に受け入れることは別です。英語を国際交流の道具として使いながら、日本語や地域の言語でも専門知識を蓄積し、必要な場面では翻訳や通訳を保障することができます。
日本の「国語」を考え直す
日本語も全国で同じ形のまま自然に広がったわけではありません。近代国家の形成とともに、学校教育や出版を通じて標準語が普及しました。
森有礼の国語論をめぐる議論も、近代国家を動かすことばをどう整えるかという問題でした。また、鈴木孝夫の「ことばと文化」は、言語が世界の切り分け方と結びつくことを示します。
田中の視点を加えると、「日本語にはどんな特徴があるか」だけでなく、「どの日本語が標準とされ、その外側に誰のことばが置かれたか」まで見えるようになります。
田中克彦の議論への反論と注意点
言語と権力の関係を重視しすぎると、共通語が持つ実用的な価値を過小評価する危険があります。標準語がなければ、教育教材、法律、災害情報、全国的な報道を効率よく共有しにくくなります。
また、標準語を使う人が常に支配者で、方言話者が常に被害者という単純な図式でもありません。人は場面に応じて標準語と方言を使い分け、それぞれを自己表現の資源にしています。
現実的な着地点は、標準語をなくすことではありません。
- 標準語を社会参加のための共通の道具として教える
- 方言や少数言語を誤り・欠陥として扱わない
- 母語の違いだけで知性や能力を判断しない
- 重要な公共情報には翻訳・通訳を用意する
- 一つのことばだけを国民性の証明にしない
しゅみすけ(大山俊輔)
英語学習者が田中克彦から学べること
第一に、ネイティブの標準英語だけを唯一の英語と考えないことです。世界では多様な英語が使われています。発音や表現の違いは、すぐに能力の不足を意味しません。
第二に、「文法的に正しいか」と「その場で適切か」を分けることです。文法は大切な共通基盤ですが、実際の会話では関係性、目的、地域、文化によって選ばれる表現が変わります。
第三に、英語力を人間の価値に変換しないことです。英語が流暢でない人にも、専門知識、経験、判断力があります。聞き手側が言い換え、確認、字幕、翻訳を使い、コミュニケーションの負担を分けることが必要です。
英語や言語を研究してきた人物を、世界の言語学と日本の英学・翻訳・教育という二つの流れからたどる場合は、中間ガイド「言語を研究した人々|英語・言語学の歴史を変えた研究者・英学者」をご覧ください。
まとめ:「正しいことば」の背後にある制度を見る
田中克彦は、ことばを単なる音声や文法の体系としてではなく、民族、国家、教育、差別、権力の問題として捉えました。
母語は生活の中で身につくことば、標準語は広く共有するための型、国家語は制度を動かすことばです。この三つを区別すると、「国語」や「正しい日本語」を当たり前のものとして受け取らず、その成り立ちを考えられます。
共通語は必要です。しかし、共通語に近い人だけが正しく、そこから遠い人のことばが劣っているわけではありません。ことばの違いを、能力や人間性の序列に変えないこと。それが『ことばと国家』の問いを現代の日本語・英語学習へ生かす第一歩です。
参考文献・関連資料
- 一橋大学「田中克彦が語る―言語学の戦後」
- 三元社「田中克彦」著者紹介
- 筑摩書房「田中克彦」著者紹介
- 田中克彦『ことばと国家』岩波新書、1981年
- 田中克彦『言語からみた民族と国家』岩波書店
国家・母語・標準語を社会言語学の全体像へ位置づけた解説は、「言語と社会とは?」にまとめています。









