
役所や病院から届いた文書を読んで、「日本語なのに意味が分からない」と感じたことはないでしょうか。
長い一文、専門用語、遠回しな表現、誰が何をするのか見えない受け身。こうした情報は、日本語を学んでいる外国人だけでなく、子ども、高齢者、障害のある人、忙しい人にも届きにくいものです。
そこで注目されているのが「やさしい日本語」です。その研究と社会実装を進めてきた中心的研究者の一人が、日本語学者・日本語教育学者の庵功雄(いおり・いさお)です。
やさしい日本語は、単に難しい漢字をひらがなへ変えたり、文章を短くしたりする技術ではありません。必要な情報を、相手が理解して行動できる形へつくり直す考え方です。
しゅみすけ(大山俊輔)
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庵功雄とは?日本語教育文法と「やさしい日本語」の研究者
庵功雄は1967年、大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科で現代日本語学を学び、博士(文学)を取得しました。大阪大学助手、一橋大学留学生センター講師・准教授などを経て、一橋大学国際教育交流センター教授を務めています。
研究分野は日本語学、日本語教育、日本語教育文法、テキスト言語学、やさしい日本語です。日本語を母語話者のためだけの体系として扱うのではなく、日本語学習者に何をどう教えれば理解と運用につながるのかを研究してきました。
著書『やさしい日本語――多文化共生社会へ』では、やさしい日本語を外国人への一時的な補助ではなく、多文化共生社会を支える言語政策として位置づけています。2023年には、やさしい日本語の普及と日本語教育への貢献により文化庁長官表彰を受けました。
「やさしい日本語」はどこから始まったのか
やさしい日本語という発想は、1995年の阪神・淡路大震災を一つの重要な契機として広がりました。災害情報が難しい日本語や限られた外国語でしか届かず、多くの外国人住民が必要な情報を得にくかったためです。
すべての情報をあらゆる言語へ即座に翻訳するのは難しい。一方、日本で暮らす外国人の中には、英語よりも基礎的な日本語のほうが分かる人も少なくありません。そこで、初級程度の日本語でも理解しやすい形に情報を書き換え、伝える試みが発展しました。
当初は災害時の情報伝達が中心でしたが、現在では役所、学校、病院、地域活動、企業などへ対象が広がっています。
庵功雄が示した「やさしい日本語」の3つの役割
庵は、やさしい日本語に少なくとも三つの重要な役割があると整理しています。
1.日本語学習の機会を補う
日本で暮らす外国人の全員が、十分な日本語教育を受けられるわけではありません。生活に必要な情報を理解できる日本語と、継続的に学べる環境を用意することが必要です。
2.地域社会の共通言語になる
外国人住民の母語は多様で、英語だけですべての人と通じるわけではありません。地域の日本人と外国人が互いに調整した日本語を使うことで、英語一択ではない共通のコミュニケーション手段をつくれます。
3.日本語学習の初級段階を支える
生活場面でよく使う語彙や表現を優先し、学んだ日本語を実際の地域参加へつなげます。やさしい日本語は完成された別の言語ではなく、学習と社会参加を橋渡しする日本語です。
やさしい日本語は「短くする」だけではない

難しい文章を短くすれば、必ず分かりやすくなるとは限りません。削りすぎると、誰が、いつまでに、何をすべきかという重要情報まで消えてしまいます。
やさしい日本語では、たとえば次の点を意識します。
- 一文に一つの情報を入れる
- 主語と行動する人を明確にする
- 抽象語や専門用語を具体的な語へ言い換える
- 二重否定、遠回しな表現、長い修飾を避ける
- 日時、場所、金額、必要な行動を目立たせる
- 漢字には必要に応じて読み方を添える
- 図、写真、箇条書き、余白を使う
- 一度伝えて終わりにせず、理解を確認する
書き換え例:「ご持参ください」はどう伝える?
たとえば、役所の案内に次の文があったとします。
手続きに際しましては、本人確認書類をご持参くださいますようお願いいたします。
文法的には正しいですが、情報の中心が見えにくい文です。やさしい日本語では、次のようにできます。
手続きの日に、在留カードやパスポートを持ってきてください。
「本人確認書類」という抽象語を具体例へ変え、「際しましては」「ご持参くださいますよう」といった敬語表現を、必要な行動が直接分かる形にしています。
大切なのは、敬意をなくすことではありません。相手が必要な手続きを完了できることこそ、実質的な配慮だと考えます。
「簡単な日本語で話すのは失礼では?」という疑問
やさしい日本語には、「外国人を子ども扱いすることにならないか」という批判があります。この懸念は重要です。
語尾を不自然に省いたり、ゆっくり大声で話したり、相手の日本語力を決めつけたりすれば、確かに失礼になり得ます。やさしい日本語は、相手を低く見る話し方ではありません。
次の姿勢が欠かせません。
- 相手が希望する言語や伝え方を確認する
- 必要以上に幼児語へ変えない
- 敬意を保ちながら構造と語彙を分かりやすくする
- 相手の理解力ではなく、情報側の分かりにくさを見直す
- 必要なら通訳・翻訳へ切り替える
やさしい日本語だけですべてを解決することもできません。医療、法律、契約など正確性が重要な場面では、専門通訳や多言語翻訳を併用すべきです。
「外国人のため」から「全員のため」へ
庵の研究の重要な点は、やさしい日本語を外国人だけのものに閉じないことです。
複雑な行政文書や社内文書は、日本語母語話者にも分かりにくいものです。読み手が必要な判断を素早くできる文章は、高齢者、子ども、認知特性の異なる人、時間に余裕のない人にも役立ちます。
この方向性は、英語圏で行政・法律・ビジネス文書を明確にするPlain English/Plain Languageとも重なります。専門性を失うのではなく、専門情報へアクセスできる人を増やす考え方です。
英語学習と「やさしい日本語」の共通点
英会話でも、難しい単語を使うことが伝達力の高さとは限りません。相手に合わせて、短い文、具体的な語、言い換え、確認を使える人のほうが、実際には会話を前へ進められます。
たとえば、難しい英語表現が出てこないときは、知っている基本語へ分解できます。さらに、Do you mean …? や Let me say that another way. のように理解を調整すれば、双方で意味をつくれます。
本名信行のアジア英語論も、母語話者の英語を完璧に模倣することより、異なる背景の人同士で伝え合うことを重視します。鳥飼玖美子の国際共通語としての英語論ともつながる視点です。
しゅみすけ(大山俊輔)
田中克彦・津田幸男から庵功雄へ
田中克彦の『ことばと国家』は、標準語や国家語が制度と権力の中で形成されることを示しました。津田幸男の英語支配論は、共通語の便利さを支える負担が非母語話者へ偏ることを問いました。
庵功雄のやさしい日本語は、その問題に対する現場からの応答と考えられます。情報を受け取る側だけに「もっと日本語を学んでください」と求めるのではなく、情報を出す側も表現を変える。適応の負担を分け合う発想です。
やさしい日本語を使うときの実践手順
- 目的を決める:読み手に何を知り、何をしてほしいのか
- 必須情報を残す:誰が、いつ、どこで、何を、どうするか
- 一文一情報にする:長い文を意味のまとまりで分ける
- 具体語へ変える:抽象語には例を添える
- 見た目を整える:見出し、箇条書き、図、余白を使う
- 当事者に確かめる:実際の読み手に伝わるか検証する
- 別の手段も残す:翻訳、通訳、音声、対面相談へつなぐ
英語や言語を研究してきた人物を、世界の言語学と日本の英学・翻訳・教育という二つの流れからたどる場合は、中間ガイド「言語を研究した人々|英語・言語学の歴史を変えた研究者・英学者」をご覧ください。
まとめ:やさしさとは、情報を削ることではなく届く形にすること
庵功雄のやさしい日本語は、外国人に簡単な日本語を与えるという一方向の発想ではありません。日本語を使う側と学ぶ側が、地域社会の共通言語を一緒につくる試みです。
難しい語を避けるだけでなく、必要な情報を選び、具体的にし、行動を明確にし、理解を確認する。必要に応じて翻訳や通訳も使う。その一連の設計が「伝わる」をつくります。
やさしい日本語は、日本語学習者のためだけではありません。行政、学校、病院、企業、そして英語での国際コミュニケーションにも通じる、情報を持つ側の責任を問い直す考え方です。
参考文献・関連資料
- 一橋大学研究者情報「庵 功雄」
- 一橋大学機関リポジトリ「『やさしい日本語』研究の現状と今後の課題」
- 一橋大学「庵功雄教授が令和5年度文化庁長官表彰」
- 庵功雄『やさしい日本語――多文化共生社会へ』岩波新書、2016年
やさしい日本語を英語圏のPlain EnglishやBasic English、技術文書のSTEと比べると、その社会的な役割がより明確になります。Basic English・Plain English・やさしい日本語・STEの違いもあわせてご覧ください。









