
英単語の意味を調べるとき、辞書は「今の正解」を教える本に見えます。しかし、世界最大級の歴史辞典Oxford English Dictionary(OED)が目指したのは、それだけではありません。
OEDは、ある単語がいつ現れ、どのような意味で使われ、時代とともにどう変化したかを、実際の引用で示す辞書です。その初版編纂を長年率いた人物が、スコットランド出身の辞書編纂者ジェームズ・マレー(James A. H. Murray、1837–1915)でした。
ただし、OEDはマレー一人の作品ではありません。編集者、助手、専門家、そして世界中の読者が送った引用票によって作られた巨大な共同事業です。
しゅみすけ(大山俊輔)
Contents
ジェームズ・マレーとは?
ジェームズ・オーガスタス・ヘンリー・マレーは、1837年にスコットランドのデンホルムで生まれました。仕立屋の家庭に育ち、学校教育を十代半ばで終えましたが、独学で多数の言語、方言、音声、英語史を研究しました。
教師として働きながら、スコットランド方言の研究や言語学会での活動を重ね、学者として評価されます。1879年、オックスフォード大学出版局と文献学協会が進める新しい英語辞典の編集責任者に就任しました。
この辞典は当初、約10年で4巻を完成させる計画でした。しかし、英語の歴史を証拠から徹底的に追う作業は予想をはるかに超えます。初版全体が完成したのは1928年。マレーが亡くなった1915年より13年後のことでした。
OEDは普通の英和辞典と何が違う?
一般的な学習辞典は、現代の意味、発音、文法、例文を効率よく確認するために作られます。一方、OEDの中心は歴史原則(historical principles)です。
一つの語について、次のような情報を年代順に整理します。
- 確認できる最初期の用例
- 綴りや発音の変化
- 意味が枝分かれした順序
- 古くなった意味や廃れた用法
- 文学、新聞、専門書などからの実例
たとえば現在の意味だけを見れば無関係に思える複数の語義も、古い引用から順にたどると、どのような比喩や社会変化から生まれたのかが見えてきます。
OEDはどう作られた?引用票による巨大な共同編集

OEDの基礎資料になったのは、書籍や新聞などから抜き出した用例を記した小さな紙、quotation slip(引用票)です。
編纂の大まかな流れは次のとおりです。
- 協力者がさまざまな時代・分野の文章を読む
- 重要な語の用例、年代、出典を引用票に記録する
- 編集部が綴り・意味・年代などで引用票を分類する
- 証拠を比較し、語義と意味変化を年代順に編集する
マレーは1879年、英語を読み書きする一般の人々へ協力を呼びかけました。世界各地の読者が資料を読み、引用票を郵送します。これは現代風にいえば、紙と郵便で行われた大規模なクラウドソーシングでした。
「スクリプトリウム」と数百万枚の引用票
マレーの編集室はScriptorium(スクリプトリウム)と呼ばれました。木造の建物の壁には多数の仕切り棚が設けられ、約200万枚に及ぶ引用票が整理されていたとされます。
マレーは、作家や学者だけでなく、科学、工芸、植物、法律など各分野の専門家へ手紙を送り、語の意味や最古の使用例を問い合わせました。手紙の量があまりに多く、オックスフォードの自宅前には郵便ポストまで設置されました。
辞書編纂は、編集者が机上で定義を考える作業だけではありません。証拠が足りなければ協力者を探し、古い資料を読み直し、より早い用例が出れば記述を修正する地道な検証作業でした。
しゅみすけ(大山俊輔)
予定10年が約半世紀になった理由
マレーが編集契約を結んだ際、辞書は約6,400ページ、4巻、10年程度で完成すると想定されていました。しかし実際の初版は、1万5千ページを超える規模になり、全体の完成まで約半世紀を要しました。
時間が延びた主な理由は、英語の範囲が想像以上に広かったからです。
- 古英語から近代・現代英語まで対象時代が長い
- 科学・法律・産業・方言など分野が膨大
- 新しい資料から、さらに古い用例が見つかる
- 一語に多くの綴りと意味の枝分かれがある
- 印刷しながら後続部分の編集を進めた
1884年に最初の分冊が刊行されましたが、進捗を上げるため、後にヘンリー・ブラッドリーら複数の編集者が別の範囲を担当しました。OEDはマレーの指導力なくして成立しなかった一方、最初から最後まで多数の人の手による辞書でした。
OEDは英語の「正しさ」を決める本なのか
OEDは大きな権威を持つ辞書ですが、英語を法律のように統制する機関ではありません。基本的な役割は、英語がどのように使われてきたかを資料に基づいて記述することです。
辞書に新しい語義が載るのは、編集部が流行を命令したからではありません。人々がその用法を実際に使い、十分な証拠が蓄積されたからです。
この点は、1755年の辞書で文学的引用を大規模に使ったサミュエル・ジョンソンの方法をさらに長い時間軸へ拡張したものともいえます。ジョンソンについては「サミュエル・ジョンソンとは?1755年『英語辞典』と英語標準化」で解説しています。
OEDにも限界はある
壮大な資料を集めたOEDも、完全に中立で漏れのない記録ではありません。
初版では、協力者がアクセスしやすかった印刷物や、当時価値が高いと考えられた文学作品が重視されました。そのため、話しことば、植民地や旧植民地の英語、労働者層、女性、少数派共同体の用法が十分に拾われなかった可能性があります。
また「最初に印刷物で確認できる例」は、その語が本当に初めて使われた瞬間とは限りません。もっと古い資料が失われたり、まだ発見されていなかったりするからです。
現在のOEDはデジタル資料と世界各地の用例を取り込み、継続的に改訂されています。歴史辞典そのものも、証拠が増えるたびに更新されるのです。
英語学習者がOEDから学べること
日常の英語学習で、毎回OEDを引く必要はありません。現在の意味や使い方を素早く調べるなら、学習者向け辞典の方が便利です。
一方、次のような疑問には歴史辞典の視点が役立ちます。
- なぜ一つの単語に離れた意味がいくつもあるのか
- その表現はいつごろから使われているのか
- 以前は普通だった意味が、なぜ古風に聞こえるのか
- 比喩的な意味は、元の意味からどう生まれたのか
単語は固定されたラベルではなく、長い使用の積み重ねです。語源だけで意味を決めつけず、各時代の実例を見ることが重要です。
まとめ:マレーが作ったのは、英単語の巨大な「履歴書」
ジェームズ・マレーは1879年から1915年まで、OED初版の主編集者として編纂を率いました。世界中の読者が送った引用票を整理し、語の初出、意味、変化を年代順に示す方法を巨大な辞書として実現した人物です。
しかし、OEDはマレー一人の作品ではありません。共同編集者、助手、専門家、一般読者という多くの人々が、紙と郵便によって英語の証拠を集めました。
辞書は単なる正解表ではなく、ことばが社会の中でどう生きてきたかを残す歴史資料です。OEDは、その発想をかつてない規模で形にした辞書なのです。










